句を詠む
先日の葬儀でお送りした故人は俳句を詠むのがお好きで、新聞にも何度も掲載されていたこともあり、その中からいくつかナレーションや挨拶に組み入れながらご紹介させていただくと、ご家族の方々が大変喜んでくださったので、とてもうれしかった。
俳句や短歌は、基本の五・七・五や五・七・五・七・七をきっちり守った上で読むと、聞いている方も分かりやすくきれいに聞こえるが、最近はきっちりその形に収まらない歌も多く、これが何とも読みにくい。
意味のまとまりだけで読んでいくと、意味もは通じるが、何とも締まりがなく歌としての趣にかける。やはり可能な限り、意味を崩さずに本来の拍で読んだ方がよいと言うのは、私の朗読の先生から先日教わったことであった。
さて、その方の作品を読んでいるうちに歌が詠める方がうらやましくなり、自分もしてみたくなった。日常の、何気ない出来事や変化に喜びや幸せを感じられる、力を抜いたしなやかな生き方…そんなことに惹かれるのも、私が年を重ねたせいかもしれない。
2012/1/24
親の思い
年末から年始にかけて相次いだお葬儀では、お風呂でなくなられた方が何人かいらっしゃった。前日まではいたって健康で何事もなく持病もなかった、とご遺族の方は残念がる。
元気な方であってもお年寄りのお風呂は十分に気をつけてなければと改めて思う。忙しくて様子を見に行けなかった母が気になり、少しの時間を見つけて母を訪ねると、いつもの笑顔で迎えてくれた。ホッとする。
さて、昨日私は初めて喪主様にお手紙を書いた。お母様を亡くされたのだが、近いところにいて、ともに過ごす時間も多くあったのに、亡くなっていたことに早く気づけなかった。一番最後に、一番してはいけない親不孝をしてしまったと何度も何度もご自分を責める挨拶をされたのである。そのことは自分の心の大きな傷となり、一生消えることはないというような内容だったと思う。そういう挨拶を二回お聞きし、私はつらくていたたまれなくなってしまった。
もし私が同じような最期を遂げて、我が息子が同じように自分を責めていたら親としてたまらない気持ちだろう。「少し予定と違う最期になってしまったけれど、私はあなたと親子になれて、ともに時を過ごせて幸せだったよ、だからもう自分を責めるのはおよしなさいな」ってわたしなら息子に語りかけます。きっと喪主様のお母様も一緒です。子を思う母の気持ちは皆一緒です。だからもうご自分を責めないでください。……いつかお母様に笑顔を送って差し上げられる日が来ることをお祈りしています。」…と。
手紙を差し上げたのがよかったのかどうか、私はわからない。でもどうしても書かずにはいられなかった。でも、あの方ならきっといつかわかってくださることだろう。
2012/1/15
年の初めに
あわただしく年末を過ごした。葬儀の司会を初めて9年。その中で大晦日まで仕事をしたのは今年が始めてである。そして明日2日から仕事開始。これまでは年末年始は主婦業専念のため極力休みを取っていたが、今はそれがかなわない状況であり、早く私ができないときの穴埋めができる司会者が育てばと思う。それにしてもこの仕事は、季節感を失ってしまう職業である。なぜなら、土日ももちろん、お盆もお正月も関係ないのだから。
さて、年の初めに私は計画や目標を立てるのが好きだ。葬儀関係でいえば、少し宗教の勉強をしてみたい。ここ数年思っていることだがなかなか実現しない。宗教の勉強といっても、学問的に深めようというむずかしいものでなく、日常生活に息づいているような、そんな身近な宗教のとらえ方ができれば…と思うのである。
そのためにはもっと時間がほしい。自由になる時間がほしいと思うがそれも無理な話で、ならば限られた時間をどうやってうまく使うか、「時間の有効活用」を今年のテーマにしたい。ずるずる流されるのではなく、オンオフ、メリハリのある一年を送りたいと思う。
2012/1/1